げげげ…現代あーちょ
長谷川裕子氏の『「なぜ」から始める現代アート』をトイレで完読。
これは本書では「入門ではない」と断言されているが、優れた意味で「良い入門」ではないかしら。というのは、コンテンポラリーアートを語ることは、常に「入門」みたいなもんじゃないかしらと思っているが故。
ここで語られていることって時間をかけて綿密に調べ上げられたり、分析されているものの語りでは決してない(多分)。
モダニズムから続く現代美術批評の文脈や用語をふまえて、現在進行形でわっさか出てくる現代アートたちを語ることは、特別な専門性を十分に必要とされることもあるけれども、それよりもむしろいかに語る人が自分の経験を開き、他者に語ることができるのかが重要になってくる(適当ですがなにか?)。
そこには専門性の高い知識よりもより多くの経験値が必要になってくるはずだ。その経験値を有し、おきまりの専門性に頼らない語り手として長谷川裕子殿は優れたナビゲーターであると思う。
愛して見るっていいですね。愛を感じたな。
せせ…せらぷすと!
を読んでみた。
こころのにっき
久しぶりに心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う (新書y)をぱらぱら読んでみた。
小沢・中島は「心」へと問題を回収してしまう心理主義の問題を取り上げる。具体的には「心理学的な発想や対応また商品化の問題、つまり社会現象としての心理学の大衆化と操作性また政治性」を問題含みなものとして捉える。
心理学という学問がどのように社会のなかで機能しているかといった諸々の問題を取り上げることによって、そこで隠蔽されてしまっている社会的な問題(まぁいろいろ)を明らかにしていく。
似たような議論として心理学化する社会 (河出文庫)というものがのちにでてきたけど、ここでも別のところでも展開された小沢の主張(「心の専門家」はいらない (新書y))に概ね同意している。
だけれども、小沢らが示す「心の専門家を無くすこと」への先にあるものは、「貧困」を前提とした「古き良き共同体の復権という幻想」にしかならないと、まぁ彼女/彼らの問題意識や具体的な立証などには概ね納得するものの結論部分ではまったく納得できるものではないと指摘する。そう全うな批判かもしれないけど、その先にある代替案はとんでもにあユートピアなのだよね。具体的な内容も提示されていなかったようにも思えるし。
で、小沢・中島氏や斉藤氏への批判として書かれた論文的なものが心理主義化する社会 (シリーズ「社会臨床の視界」)に収められた森真一「社会の心理主義化をどのように捉えるか?:3つの立場」といったものだった。
ここでも小沢、斉藤らの議論を参照し、「社会の心理化現象」の議論に賛成しつつも小沢においては、やっぱり「古き良き共同体の復権という幻想」という点で批判し、斉藤においては「ラカンという〈信仰〉」に基づいたものだと批判する。まぁ斉藤に関する批判は微妙なものだ。斉藤が「精神分析家として語るのではなく精神分析家のように語ることで、精神分析学がはらむ幻想から逃れることができる」と述べていることについて、非常に無責任で言語道断だと痛烈に非難する。
まぁそういったつらつら述べられる愚痴は置いておいて、当の森自身の「心理化する社会」という問題を改善させるための展望は、バウマンの社会学の考え方―日常生活の成り立ちを探る
で述べられるいわゆる「消費者態度」の改善とかいう話。
おおざっぱにいうと、「心」とか「癒し」を商品として消費するやつらは馬鹿でもっとそれらの裏に潜む社会的な問題に目を向けて、自らの「消費者態度」を反省すべしなのだ、と言いたいばかりに消費者態度の問題へ展開していく。ええ…おそらくそんな単純な話ではないように思えるんですけど…。ウィタカーの心の病の「流行」と精神科治療薬の真実とか読むと必ずしも消費者の問題だけではなく、もっとポリティカルな力関係が働いているようにみえるし、「専門家」自身もよくわかっていないということがよくあるようにも思うんですけど、どないでっしゃろ。
結局、「こころの商品化」の問題は、いろんな領域で共有されているものとしてあるのかもしれないけども、代替案などはみなどれも魅力なし。そんなんでええんかいな。
うはうわ日記
どのなにか分からなかったけど立ち読みしたものの覚書。
ユング派を構えの実践として位置付けサリバンが展開してきた病者への尊重と共感(生物社会心理モデル的な)を視野に入れて現代の脳科学の知見(といっても解釈装置モジュールしか提示してない)によって認知行動療法の理論的基盤は崩れ去り、ユング精神分析がその知見とともに新たな可能性を唯一もつものであると述べる。それはいかがかと…。態度のあたりまではおもしろかったけど…。
とりあえずいくつかよくわからないとこがあった。1つはユングを「好きでもあるしきらいでもある」と自身のユングに関する態度をそのようなものとして提示しているところ。研究者、臨床家にとってそのひとが寄って立つ対象を「好き嫌いの対象」として捉えているところに疑問がある。そういったことって実は「好き嫌いの対象」ではないことが重要なのではないか?2つ目、理論中心主義としてフロイト一蹴、それに対する臨床に開かれた(というか理論化できずに臨床における経験を優先した(かのようにみえた?)ユングを臨床的な側面から擁護するのは眉唾。それに一個人のユング派のいうユングの開かれた分析心理のあり方ってかなり危ういものでもある。つまり、個々人の技量によってユングの実践と理論は都合の良いように利用されてしまうのではないかということ。それならば、ユング派心理学というもの自体がおかしいし、そこで語っている「あなた」は誰だという疑問が残る。3つ目、脳科学の進展によって認知行動療法は廃れていき、ユング心理学こそが脳科学とともに臨床場面や研究に多いに役立ち得るという位置づけはいかがなものか。なぜユング心理学のみなのか。しかもそこで語られる脳科学とは「解釈装置モジュール」のみであって、ユング理論に都合の良いところだけとってこられても胡散臭い印象を受けるだけ。もっと十分な理論的説得がそこでは必要。あまりにも適当すぎる。なんじゃいそれ。
OPD
OPD(オープンダイアログ)について拾った情報。覚書。
を購入。斉藤環氏による「オープンダイアログ」の紹介有り。看護系の雑誌でべてるとの比較をしているらしいけども、なんの雑誌か忘れた…。
オープンダイアログに関する映像は(誤訳が多いけど)、
『開かれた対話』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチの (Open Dialogue, Japanese subtitles) - YouTube
セイックラのまとまった共著はこれ。読み易いックラ。
Dialogical Meetings in Social Networks (Systematic Thinking and Practice Series)
- 作者: Jaakko Seikkula,Tom Erik Arnkil,Lynn Hoffman
- 出版社/メーカー: Karnac Books
- 発売日: 2006/08/30
- メディア: ペーパーバック
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以下論文。前半理論。後半実践紹介(だったと思う)。
http://www.theicarusproject.net/files/OpenDialog-ApproachAcutePsychosisOlsonSeikkula.pdf
ウィタカーの心の病の「流行」と精神科治療薬の真実のなんだかディストピアなお話からエピローグの「改革の青写真」にてOPDが紹介されている。この本の訳で統計文脈では「印象的」ではなく「有意」とした方がええではないかと。そうなんだね。原本見てないから不明。ただ「印象」っていわれてもわからん。
以下色々。
Institute for Dialogic Practice
へらへら日記
消えた…。目次だけ覚書
目次
第一章「予診」
1:はじめに
2:予診のもつ3つの機能
3:予診をとることにあたっての総論的なことがら
1)病人自身に先にあうか、付添人に先にあうか
2)「これは予診です」
3)外国語と専門用語を使用しない
4)家人はえてして心因論者である
5)予診は陳述者との共同作品である
6)簡潔な「主訴」を冒頭に
7)予診室の構造
4:予診の際の着眼点
1)自発的にきたか、連れてこられたか
2)年齢、性
3)これまでの社会的機能は
4)性格について
5)発症契機
6)家族に関する事項
7)生活史
8)身体的既往歴
5:おわりに
第二章「初診」
1:はじめに
2:総論的なこと
1)初診時にかけた時間は報われる
2)起承転結をつける
3)第一印象
4)初診の「記録」としての意味
5)開業医用の一工夫
3:診断のためのいくつかの要点
1)体因性→内因性→心因性
2)精神医学的猥雑性を排す
3)「神経症に心因なし」
4)治療意欲の乏しい人への対応
5)家族との会い方
6)困難ケース
7)サマリーをつけることなど
第三章:「初期治療」
1:はじめに
2:小精神療法
3:逆転移について
4:治療中断者、転医希望者
5:2、3ヶ月に一度の割でサマリーを
6:初期治療と予後の関係
『メンヘラちゃん』
- 作者: 琴葉とこ
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2012/10/17
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